北方の民の痕跡をたどり、オホーツク街道をゆく
北方の民の痕跡をたどり、
オホーツク街道をゆく
オホーツク海沿岸には、約1500年前(5〜6世紀)から花開いた「オホーツク文化」の痕跡が多く残されています。海洋狩猟民の彼らは、大陸と深いつながりを持ち、アイヌ文化に影響を与えたと考えられています。作家・司馬遼太郎も強い関心を寄せ、紀行文「街道をゆく」シリーズの取材でオホーツク沿岸を旅しました。その行程の一部をたどり、北方の民へ思いを馳せながら「オホーツク街道」を体感しましょう。
旅の前の予備知識
縄文文化以降の北海道
およそ3000年前、日本列島南部に大陸から稲作がもたらされると、徐々に本州に広がって縄文文化は終焉を迎えました。本州は弥生文化となって古墳文化以降、中央集権的な体制が進み、飛鳥・奈良、平安時代へとつながっていきます。しかし、北海道は様相が違っていました。およそ2400年前(紀元前400年ごろ)、引き続き縄文文化からの狩猟採集生活を中心とした「続縄文文化」となります。その後、5世紀ごろから道東・道北を中心に大陸の影響が色濃い「オホーツク文化」、7世紀ごろから道南・道央を中心に本州とのつながりが強い「擦文文化」へと移り変わっていきます。そして9〜10世紀ごろ、道東に擦文とオホーツク両方の文化が融合した「トビニタイ文化」があらわれます。くわしいことはわかっていませんが、しだいにオホーツク文化は擦文文化に吸収されて消滅し、全道的に擦文文化が広がっていったと考えられています。
オホーツク文化の人々は、北からオホーツク海を南下してきた、大陸にルーツを持つ集団と考えられています。漁労や海獣狩猟を生業とする“海の狩人”であり、クジラやシャチ、アザラシなどの海獣を捕獲していました。機能性に優れた漁労具は、動物の骨や角などから作られ、また、儀礼用と思われる動物などをかたどった精巧な彫像も作り出しています。
住居は五角形や六角形をしているのが特徴です。中央に石組みの炉があり、そのまわりをコの字型に囲むように床が作られていました。そしていちばん奥には、ヒグマの頭蓋骨を祀った祭壇が設けられていたことがわかっています。このようなクマを神聖視する風習は、アイヌ文化の「クマ送り(イオマンテ)」のもとになっているのではないか、という説もあります。
司馬遼太郎の『街道をゆく38 オホーツク街道』の旅
司馬遼太郎の『街道をゆく』は、1971年から96年まで「週刊朝日」(朝日新聞社)に連載された紀行文。全43巻の単行本にまとめられています。日本の文化や風土の源流にせまる旅は、国内のみならず海外までおよびました。38巻目の「オホーツク街道」は、1992年4月から12月までの連載分です。
1991年9月と92年1月に、縄文文化からそれ以降の北の文化に思いをめぐらせ、オホーツク文化の遺跡を中心に、北方民族の痕跡を考古学的な視点でたどりました。
旅のプラン
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