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Hokkaido Digital Museum

北海道の歴史と文化と自然

中近世の蝦夷地

中世から近世にかけて、北海道は「蝦夷島」や「蝦夷地」と呼ばれていました。蝦夷(エゾ)とは、擦文(さつもん)文化をへてアイヌ文化を担った人びとを指しています。また和人が住む道南には、日本最北の藩、松前藩が生まれました。ここには北方で展開されたもう一つの日本史がありました。

中世から近世の蝦夷地

国指定史跡・上之国館跡 勝山館跡
武田信広が15世紀後半に築いた山城。発掘調査によって和人とアイヌが混住する大規模な城塞都市であったことが明らかになっています(写真提供:上ノ国町)

中世の北海道の記録として知られているのが、14世紀に書かれた『諏訪大明神絵詞』です。ここには〈えぞがちしま〉に日の本・唐子・渡党とよばれた人たちが住んでいると書かれています。日の本と唐子はアイヌ民族、渡党は和人だと考えられています。
アイヌと和人はさかんに交易を行い、中国の陶磁器や銅銭が北海道へ、逆に北海道のコンブやサケが本州へと運ばれました。交易の拠点となったのは、豪族安東氏が「蝦夷管領」として支配する津軽半島の十三湊(とさみなと)でした。
このころ道南地方には、和人の10数の館(たて)があったことが知られています。館主どうしの争いやコシャマインの戦いをへて勢力を握ったのが蠣崎(かきざき)氏、のちの松前氏です。16世紀にはアイヌと和人の交易の拠点は松前へと移りましたが、アイヌは本州へでかけ、自由に交易を行うなど対等な交易を行っていました。

国指定重要文化財・旧笹浪家住宅
北海道で最も古い民家。笹浪家の初代は享保年間(1716~1735年)に能登から移ったと言われ、写真の建物は1838(天保9)年に5代目当主が建てたとされます(写真提供:上ノ国町)

1604(慶長9)年、松前藩に黒印状が与えられると、松前藩はアイヌ民族と蝦夷地への支配を強めていきます。1630年代には交易権を家臣に分け与える「商場知行制」という仕組みができ、蝦夷地での金の採掘のため、和人が蝦夷地に入りこむようになりました。
このことでアイヌ民族にとって一方的に不利な交易が行われるようになり、その不満は1669(寛文9)年、「シャクシャインの戦い」につながりました。この戦いに負けたアイヌ民族は、このあと、松前藩の支配を強く受けることになります。
一方、和人社会の中で大きな力を持つようになったのは、知行主から商場の経営を請け負った商人でした。18世紀の前半には、知行主は商場の経営を請け負った商人から運上金を受け取り、漁場の経営やアイヌの管理を商人に委ねる「場所請負制」が生まれました。アイヌは、和人のもとで働いて給料をもらい、和人から物を買うようになり、自由な交易活動ができなくなっていきました。

勝山館の成り立ちや人びとの暮らしがわかる

勝山館ガイダンス施設

4月下旬から11月初旬まで開館し、模型や映像で勝山館を案内しています。

松前藩の繁栄と文化

北海道指定有形文化財・松前屏風
江戸中期の作品。高さ約1.6m、横約3.7mの屏風に当時の松前が克明に描かれています(松前郷土資料館所蔵)

松前藩では米がとれないため、「加賀百万石」のような石高で藩の経済を表せませんでした。そのため「無高の藩」とよばれました。松前藩にとって蝦夷地の物産と交易が経済を支えるものだったのです。
江戸時代には、蝦夷地から日本海を経由して大坂にいたる「北前船」による物流ネットワークが築かれました。昆布など蝦夷地の物産は、日本国内だけでなく、長崎や薩摩・琉球から中国へも輸出されました。

夷酋列像より「イコトイ」
蠣崎波響の代表作。12人のアイヌの長老たちの肖像画を松前藩主道廣の命によって描いたもの(函館中央図書館所蔵)

その積み出し港となった江差、松前、箱館の「松前三湊」は江戸にもないといわれる繁栄を謳歌し、その様子は「松前屏風」にも描かれています。
これらの三湊や城下町の松前には多くの寺が建ち並び、商人や、津軽や下北から出稼ぎの漁民たちがやってきました。また北前船の影響で京や上方の文化の影響もありました。
18世紀には、ニシンを煮て絞ったニシン粕が蝦夷地から本州へ運ばれ、米作の肥料、あるいは藍、綿花など商品作物の肥料として江戸時代の産業の発展に大きな役割を果たします。
松前の藩政時代を代表する画家に蠣崎波響(かきざきはきょう)がいます。円山応挙の円山派や中国の宋画に学び、多くの作品を残しています。とりわけ有名なのが「夷酋列像(いしゅうれつぞう)」です。1789(寛政元)年、場所の過酷な支配に対し、道東のアイヌ民族は「クナシリ・メナシの戦い」に立ち上がりました。「夷酋列像」は、この地方のアイヌの首長などの姿を描いたもので、誇り高い内面がにじむ傑作といわれています。

町指定有形文化財・旧関川家別荘
松前藩随一の豪商といわれた関川家の別荘。当時の商人の栄華を今に伝えています(写真提供:江差町)
国指定史跡・国泰寺
東蝦夷地を直轄した幕府が、クナシリ・メナシの戦いの舞台ともなった厚岸に、釧路地方の鎮守として文化元(1804)年に設置。蝦夷三官寺のひとつ(写真提供:厚岸町)

もう一つの黒船——蝦夷地の幕末

16世紀後半からシベリア進出をすすめていたロシアは17世紀中頃にオホーツク海沿岸に達し、たびたび南下して日本に迫っていました。幕府にとっても北方への関心が生まれていました。
1792(寛政4)年、アダム・ラックスマンが交易を求め根室に来航しました。幕府は交易を断りますが、その後もレザノフの長崎来航(1804年)、国後島でのゴローニン事件(1811年)などロシアとの接触事件が続き、日ロ間の緊張は高まりました。まさに「北の黒船」といえるロシアの南下でした。
この間幕府は、北方防備のために千島・樺太を含む蝦夷地を幕府が直接おさめることを決め、大規模な蝦夷地探検を進めました。1798(寛政10)年、近藤重蔵が択捉島に「大日本恵土呂府」の木柱を建て、日本の領土であることを示すとともに、択捉島以南の島々に番所を設け役人を常駐させました。また津軽、南部、仙台、会津などの東北諸藩に蝦夷地の警備を担わせるなどしました。
その一方、ペリー提督が率いるアメリカ東インド艦隊が来航し、幕府と日米和親条約を結び、下田とともに箱館が開港地となりました。ペリーは箱館に立ち寄り、多くの逸話を残しながら18日間滞在しています。箱館には開港地として外国領事館や商館、教会ができ、また北方防備の拠点として初めての西洋式城郭である五稜郭が築かれました。
1867(慶応3)年江戸幕府は終わり、明治維新がおこります。翌年北海道では、明治新政府に降伏しなかった榎本武揚が率いる旧幕府軍が、鷲ノ木(森町)に上陸し、箱館などを占拠しました。元新撰組副組長、土方歳三らも加わったこの「箱館戦争」は、1869(明治2)年に新政府軍の勝利で終わりました。時代は、大きく変わることになります。

特別史跡・五稜郭
1864年に完成し、蝦夷地の政治的中心地となりました。現在は史跡公園として整備され、春は桜の名所、冬は堀がライトアップされます(写真提供:函館市)

ペリー提督来航記念碑
ペリーは箱館港を「世界中のどの港にもまさるとも劣らない」と評価し、箱館の人びとの暮らしが贅沢にさえ思えるほど安楽だと記録しています(『ペリー提督日本遠征日記』より)。函館市元町公園下には、ペリーの立像が設置されています(写真提供:函館市硬式観光情報)

140年の時を超えてよみがえった

箱館奉行所

数々の歴史の舞台となった五稜郭・箱館奉行所を、2010年に当時の場所に当時の姿のまま全体の3分1で忠実に再現した、歴史遺産の空間です。五稜郭公園の中にあります。


函館のランドマーク

五稜郭タワー

五稜郭築城100年を記念して1964年に旧タワー(高さ60m)が建造され、その後2006年4月に高さ107mの新タワーがオープンしました。展望台からは函館山や津軽海峡、横津連峰の山並み、そして五稜郭の眺望が望むことができます。

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