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Hokkaido Digital Museum

北海道の歴史と文化と自然

技術者たちの大地—赤れんが庁舎は語る

北海道の開拓には農業や建築、土木などの先進技術がもとめられました。北海道は世界からその技術を取り入れ、多くの日本人技術者を育てました。開拓使と北海道庁は、その技術と技術者の「ゆりかご」となったのです。

赤れんが庁舎のものがたり

開拓使本庁舎絵図
N.W.ホルトが描いた(『明治大正期の北海道』より)

明治に建てられた開拓使本庁舎と道庁赤れんが庁舎(北海道庁旧本庁舎)は、当時の北海道が技術の粋を集めて建てた建物でした。
1873(明治6)年に建てられた開拓使本庁舎は中央に八角ドームを抱く堂々としたアメリカン・バロック様式の建物で、長い間、開拓使が招いたアメリカ人技術者N・W・ホルトの設計と思われてきましたが、その後、開拓使御用掛の安達喜幸の設計であることがわかりました。
安達は1827(文政10)年に江戸で生まれた大工の棟梁で、その腕が見込まれ44歳の時に工部省会計局営繕方付属に抜擢されました。開拓使では豊平館や時計台の設計も手がけており、明治の日本人が驚くべき早さで西洋建築をものにしていったことを示します。

開拓使札幌本庁舎
1873(明治6)年10月29日の落成記念で撮影された庁舎(『明治大正期の北海道』より)

現在の赤れんが庁舎は、焼失した開拓使本庁舎に代わり1888(明治21)年に造られました。設計したのは、北海道庁技師の平井晴二郎です。平井は文部省第1回留学生としてアメリカ・レンセラー工科大学に学んだ英才です。開拓使に入った平井は、幌内鉄道の敷設に従事していましたが、当時32歳ながら北海道庁庁舎設計に抜擢されました。
使われたレンガは、札幌近郊で焼かれたもの。当時、レンガに適した土が見つかった白石村(現・札幌市白石区)に、鈴木煉瓦製造場など何軒かのレンガ工場があり、これらのレンガが使われました。レンガの積み方は長手と小口を交互に積む「フランス積み」で、美しい姿を見せています。またいたるところにあしらわれた赤い星のマークは、北極星をイメージして開拓使が自らのシンボルにしたものです。
平井晴二郎は後に函館水道の建設に携わり、北海道を離れてからは鉄道技術者として活躍し、帝国鉄道庁総裁に就任しています。

国指定重要文化財・豊平館
1880(明治13)年に開拓使直営のホテルとして建てられました。設計は初代道庁庁舎を設計した安達喜幸、工事は大岡助右衛門が請け負いました。アメリカ洋式が基調ですが、随所に和風のモチーフが取り入れられています(写真提供:札幌市)
※保存修理工事のため2016年3月31日(予定)まで休館
元町配水場
1889(明治22)年、横浜に次ぐ国内2番目の水道として開設。道庁赤レンガ庁舎の設計を手がけた平井晴二郎が工事監督を行いました(写真提供:函館フィルムコミッション)

明治時代の北海道にタイムスリップ!

北海道開拓の村

開拓の過程における生活と産業・経済・文化の歴史を示す建造物等を移設、復元して保存するとともに、開拓当時の情景を再現展示し、北海道の開拓の歴史を身近に学ぶことのできる野外博物館です。


現存する国産最古のSLなど、見どころ満載

旧手宮鉄道施設

旧手宮駅構内とその周辺に遺された鉄道で、機関車庫(1号、3号)、転車台、貯水槽、危険品庫、擁壁などから構成されています。開拓使がアメリカから購入したSL「しづか号」や、現存する国産最古のSL「大勝号」なども保存されています。

  • 住所小樽市手宮1丁目
  • 電話0134-33-2523(小樽市総合博物館)
  • リンク旧手宮鉄道施設

受け継がれる技術者の精神

平井晴二郎のように、開拓使と、それを引き継いだ北海道庁は、北海道開拓に邁進する技術者たちを育てる「ゆりかご」でもありました。
開拓使時代、ケプロンをはじめ、地質調査のライマン、北海道農業の基礎をつくったエドウィン・ダン、工業技術者のホルト、鉄道技師のクロフォードなど、多くの外国人技術者が開拓を指導してきました。開拓使の御雇外国人は76名におよび、その三分の二がアメリカ人でした。
開拓使は、その一方で日本人技術者の育成を最大の課題と考えていました。旧幕臣であっても技術や知識をもつ人材を積極的に集め、そのなかには箱館戦争を戦った榎本武揚や大鳥圭介、荒井郁之助、ライマンの弟子山内徳三郎、日本の気象観測の草分け福士成豊などがいました。
また多くの若者を海外に留学させるとともに、人材育成の場となったのが、1876(明治9)年に設置された札幌農学校(北海道大学の前身)でした。札幌農学校の開校当時、クラークの跡を受けて2代目教頭となるウィリアウム・ホイーラーは、札幌農学校で土木・力学・数学を教えるかたわら、開発技術者として札幌圏の運河・道路・道路建設のための調査と測量を行いました。

札幌農学校創基25年記念式典に際し教職員、学生、卒業生、来賓一同(演武場前)
1901(明治34)年、札幌農学校演武場(現・札幌市時計台)の前にて(『明治大正期の北海道』より)
真駒内牧場におけるエドウィン・ダンと輸入馬
エドウィン・ダンは1873(明治6)年に来日し、北海道の畜産業の普及に尽力しました。写真は1877年頃のもの(『明治大正期の北海道』より)
小樽港北防波堤
小樽港を日本海の荒波から守る延長1289m・幅員7.3mの堤防。建設にあたって広井博士はコンクリート試供体を6万個以上つくり、このテストが今も続けられ、「100年試験」と呼ばれ世界のコンクリート技術者から注目されています(写真提供:土木学会北海道支部)

技術者としてのホイーラーの教えを受け継いだのは二期生の広井勇です。札幌農学校土木工学科教授となり北海道庁技師を兼務した広井は、小樽港の築港に力をそそぎます。1908(明治41)年には日本初のコンクリート製長大防波堤・小樽港北防波堤を完成させますが、この堤防は建設から100年以上経た現在も使われており、土木学会選奨土木遺産の第一回選定に選ばれました。広井が考案し設計に用いた波力公式は、「広井式」として今も港湾設計に使われ、広井は日本の〝港湾工学の父〟と呼ばれています。
北海道庁技師の岡崎文吉は、広井の札幌農学校工学科教授時代の教え子でした。1898(明治31)年に北海道の石狩川は空前の大洪水を起こしますが、岡崎は石狩川治水を決意し、治水研究をすすめ、石狩川の治水計画の策定を率いました。1910(明治43)年には石狩川治水事務所長に就任し、その困難な事業にまい進した岡崎は、〝石狩川治水の祖〟と呼ばれることになります。「自然を教師とし、自然が示した実例を見ならう」という彼の治水思想である「自然主義」は今も高く評価されています。

札幌のシンボル

札幌市時計台(国指定重要文化財 旧札幌農学校演武場)

1878(明治11)年に札幌農学校の中央講堂として建設されました。1906(明治39)年に札幌区(現・札幌市)が農学校から買い上げ、道路整備のため100mほど南へ移動しました。1963(昭和38)年に制定された札幌市民憲章の前章で、『わたしたちは、時計台の鐘がなる札幌の市民です』とうたわれ、札幌のシンボルとして愛され続けています。


「北海道酪農の父」の業績をたどる

エドウィン・ダン記念館

1880(明治13)年、エドウィン・ダンにより北海道開拓使の「牧牛場の事務所」として札幌市南区の真駒内に建てられました。1964年にエドウィン・ダン記念公園内の現住所に移築され、ダンの業績をしのぶ記念館として公開しています。

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